廣永の若い人には、いつも躯(カラダ)で覚えなさいと言っている。つまり、手が勝手に動くようにならなくてはあかんということだ。
例えば、こういうことがある。窯物としてある注文がきた場合、初めてのことだから「厚みはこのくらい、カーブはこのくらい」と私が見本を挽いてみせる。すると、それを見て若い人も割合に上手に作るのである。けれど二〜三カ月経ち、もういいだろうとひょいと覗くと、すでに最初とは違うものになっている。面白いもので、寸法は確かに合っているが、微妙な線や厚みが違っているのだ。それは何故かと言えば、躯(カラダ)で覚えてないからである。手が勝手に動いていっておらぬからである。
轆轤を挽く際に、厚みはこんな調子だろうか、カーブはこれくらいだろうかと頭で考えるようでは、自然で作為のない線や厚みは出て来ない。轆轤の挽き方が数か月で変わるのも当り前である。やはり轆轤は両の手の感覚で覚えるしかない。考えていたらできないものだ。
廣永の作業場風景
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