作陶について、半泥子は私たち弟子に教えるということはなかった。だいたい、やきものは教えてわかるものではない。それが半泥子の考え方で、私もまったく同感である。「ココという勘所、微妙な所」は、教えてもらって身につくものでなく、結局は自分自身で悟るしかない。若い時分は、私も見取稽古であったような気がする。

 しかし、半泥子の教育としては、例えばこういうのもがあった。長谷山山麓にある窯場の仕事を終え、たびたび麓の村にある師の住まい(鳴穂堂)に行く。私の寓居もその近くである。すると半泥子は古い茶碗や水指を出して来て、ここがいい、あそこがいいと話し聞かせてくれるのだ。また別の日は、半泥子が自作の茶碗をいくつも並べ「どれがいいと思うか」と問う。私や、昭和二十三〜二十五年当時廣永に勉強に来ていた吉田耕三氏が答えると、「ほんとうにいいのはこっちや、お前らはマダマダやな」とやる。何事もこういう式の教え方であった。

半泥子自画像

 

現在の鳴穂堂

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


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