「ちゃんとした茶碗がでけん人の食器は、面白くない。それを、このごろ心底思うようになりました。茶碗で人に納得してもらえるものを作れなんだら、作っているやきもの全体に命が吹き込まれんような気がします」

 食器だけ作っていては、やきものの真髄に到達し得ないのではないだろうか。この意味で私は、やきものの行き着く先は、やはり茶碗にあると考えるようになった。なぜ桃山期の茶碗が良いのか、それは、利休や織部のような茶人によって取り上げられたからであり、やきもの師に何を注文しても茶の精神が生きていたからだと思う。これが日本人のやきものの伝統であって、やきものが茶から離れることはないのだ。茶は原点。そう私は考える。むろん、食器を作るより高く売れると言う安易に茶碗を作ろうとするのとは、次元が違う話である。

 

茶室・鳴穂堂お徳庵

 

 

鳴穂堂にて坪島氏作の茶碗で茶をいただく。左より光益徹也氏、「寿鶴」店主・小暮寿鶴子、「寿賀」店主・菅正男

 

 

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


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