半泥子は常づね「やきものは人間や」と言っていた。服やアクセサリーでなく、中身が肝心ということである。廣永窯の出発点も、まさにそこにある。今現在の陶芸界は、やきものの良し悪しを着物で評価する。釉薬の面白さで見せるような場合が多いのである、中身は轆轤で堅いやつを削り出そうがカンナで削ろうが自分の好きな形にできればいい。そこには生きた線や土の味などは求めない。ただ上にかける釉が、今までに無かった釉であるとかで評価してしまう。

 半泥子の場合は、まったく逆だった。上絵や釉は人間における着物と言い切っていた、それらを取ってしまって、どれだけ迫力のある素地ができているか、これが問題であった。

 いいボディ(素地)には、どんな着物を着せてもいいものになる。それが、師から継承した私の作陶の基本だ。であるから、素地は丹念に手を抜かずに作る。そして、はじめ織部に三つ四つ作って、全部織部にするのも面白くないと思ったら、今度は黄瀬戸を掛けてみる。その場の遊び心で、いろいろに楽しむのである。このため、時には「何何焼」とレッテルを貼れぬようなものも出来上がる。それは、それで面白い。素地をシッカリ作ってあるから、それなりの味が出て楽しめるのである。私の作品も廣永の窯物も、そこに基本的な特徴があると思っている。

 

 

 

泥仏堂の床

黒茶碗

 よく、窖窯で一週間も十日もかけて焼いたのだと話す人がいるが、私はそれはそれで価値のある事と思う。それなりの上がりになるはずだが、それが名品のすべてでも無いはずだ。窯に入れるものの素地に力がなかったら「なんぼ上がりが良くてもあかん」のである。素地の力と焼き上がりが両方相まってこそ、良いものが出来る。まして名品となると、素地はもちろんのこと、釉薬や窯へ入った時の条件など、すべての条件が揃わねばならないのだ。

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


home

inserted by FC2 system