半泥子は常づね「やきものは人間や」と言っていた。服やアクセサリーでなく、中身が肝心ということである。廣永窯の出発点も、まさにそこにある。今現在の陶芸界は、やきものの良し悪しを着物で評価する。釉薬の面白さで見せるような場合が多いのである、中身は轆轤で堅いやつを削り出そうがカンナで削ろうが自分の好きな形にできればいい。そこには生きた線や土の味などは求めない。ただ上にかける釉が、今までに無かった釉であるとかで評価してしまう。
半泥子の場合は、まったく逆だった。上絵や釉は人間における着物と言い切っていた、それらを取ってしまって、どれだけ迫力のある素地ができているか、これが問題であった。
いいボディ(素地)には、どんな着物を着せてもいいものになる。それが、師から継承した私の作陶の基本だ。であるから、素地は丹念に手を抜かずに作る。そして、はじめ織部に三つ四つ作って、全部織部にするのも面白くないと思ったら、今度は黄瀬戸を掛けてみる。その場の遊び心で、いろいろに楽しむのである。このため、時には「何何焼」とレッテルを貼れぬようなものも出来上がる。それは、それで面白い。素地をシッカリ作ってあるから、それなりの味が出て楽しめるのである。私の作品も廣永の窯物も、そこに基本的な特徴があると思っている。
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