私は、大阪で生まれ育った。物心ついた頃すでに日本と中国との戦争が始まりかけており、残念ながら芸術や文化を語れる時代ではなかった。大阪近郊にあった阪神パークなる遊園地で絵の公募展があり、私が描いた絵が入賞したこともあるが、とりわけ絵が好きで毎日描いていたという訳でもない。しかし、今にして思えば、母の影響が大きかったと思う。

 「私の母親は、腕のいい和裁の職人としてなかなか評判で、大阪でもかなり高級な仕立物をしておったんです。母親が仕事している側で遊んだ記憶も多く、着物とは縁が深く育ちました、母親は時折、大阪にある画廊や展覧会を見て歩くこともあったようでね。三越画廊でしたか、彫刻家・高村高雲の展覧会を見て、それがえらい素晴らしかったと私に語って聞かせたのは、今でもよう覚えとります」

 私は現在、着物の絵柄を描くこともある。しかし、ずっと以前にも「土平さんの絵付けは、着物の柄になる」と言われたことが何度かあった。母親の側で着物に慣れ親しんでいたことが、知らず知らずのうち私の美的感覚を養っていたのかもしれない。着物を仕立てる母の姿は、私の作品づくりに潜在的な影響を与えているのではないか。近頃そう思うことがある。 

 

 

 着物(紬)「鹿文」・帯(箔美彩銀)「鳳凰」

(写真提供:廣永陶苑) 

金銀彩松文黒織部ふたもの(写真提供:廣永陶苑)

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


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