作陶を始め、三十年くらいたった頃に節目が訪れた。年齢で言えば五十少し前だ。そこで半泥子とは違う己の道、坪島土平の道を開くことになったのである。

 半泥子の作品は自分の世界、あくまで半泥子の次元にあるやきものである。私が半泥子と同じものを作っても、しょせん真似に過ぎず、イヤラしさばかり表に出てしまう。半泥子の茶碗はゆがんでいても、そこにどっかり半泥子が胡座をかいて座っておるから、世間に通用するのである。半泥子の場合「一生シロウト」と自ら表明したように、ゆがんでいようが欠けていようが自分が面白いと思えば、全く気にせず人前に出した。売れようが売れまいが、人がなんと言おうが構わなかった。自分が楽しんで作り茶を喫めれば良かったのである。

 しかし、私の場合はやきものでメシを食うという意味のプロフェッショナルである以上、ゆがんだもの傷ものは、いかに自分が面白いと思っても個展等で人様の前に出すわけにはいかない。もちろん私も「こだわりを捨て遊び心を引き継いでいるが、さて作品にしようとすると話は別である。半泥子の精神を引き継いでいるが、さて作品にしようとすると話は別である。半泥子の真髄を織り込みながら、坪島土平独自のものを作っていかねばならぬ。半泥子の探究した精神から外れてしまうと廣永でなくなるが、かといって半泥子の世界に踏み滞ることは許されないのである。

 

 

坪島土平作品の展示館、幽昭館。古民家を移築した建物である。もと土間だった部分に新たに床を張り、展示室としている。

泥仏堂の半泥子像

 

 「あ、これやな、この行き方でいい。なんやら坪島土平の世界が開けてきたな、と感じたのは五十歳少し前やったですね。それからは、大皿でも面象嵌でも、何を作っても私の世界と言えるやきものが出来るようになりました」

 こうした節目を過ぎ、改めて実感し得たこともあった。それは、半泥子精神の根本的にスゴいところ、何にでも応用が効くことの確認である。ぐい呑みひとつ、あるいは食器ひとつ作るにも、半泥子の作陶精神が生きていれば、おのずと茶碗に劣らぬ品格と力があり、味のあるものが出来てくる。また、そういったものを目指さねばならないと思う。

 私が師から引き継いだのは、形でもない。技術でもない。やきものは人間の生き方の反映という信念であり、何ものにもとらわれぬ「自在自楽の心」そのものだったのである。

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


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