半泥子の作ったものは九十%が茶碗である。絵付けはめったにしなかった。私も茶碗には、ほとんど絵付けをしない。唐津に草文様を描く程度のものだ。

 しかし私は、半泥子が得意としなかった大きな作品を作っている。大きなものになると、ボディの良さだけで見せるのはなかなか難しくなる。そこに絵付けがちょっと入れば、ボディの良さと相まって、さらに楽しいものができる。私は、こういう意味から絵付けをすることが多い。だから、器の空間にどれだけの絵の量を合わせれば良いか。ここに最も気を使う。多すぎてもいけないし、少なすぎても寂しくなる。

 

 

染付輪花鷺文台鉢

色絵鳳凰文仙盞瓶(写真提供:廣永陶苑)

 半泥子は、絵付けについて、こう教えてくれたことがあった。やきものの絵は上手に描かなくてもいいのだ、と。ではどういうものが良いのかと聞くと「やきものの空間に、ぴたっと入っている絵がええんや。絵がやきものを邪魔してはあかん」と答えた。つまり、器胎(ボディ)と絵が一体になっているのが肝心で、上手下手は二の次だというのだ。

 絵描きさんの描いた絵付けは、こうした見極めがない。絵が主流だから器の空間に収まりきらず、飛び出してしまいがちだ。また、画家の先生はデザインはするが轆轤はやらないので、素地と絵をマッチさせるのが非常に難しくなる。私ら陶工の場合は、素地から作るために違和感が出にくいのである。

 私は、絵付けする場合、迷わない。迷ってはいけないと考えている。描きたいものは、前からよそで何度も描きつけておき、イメージも形も頭の中にしっかり入れておく。そして、何も見ず自分の思うまま描けるようになってから、やきものに絵付けする、そのようにならんのでは迷ってしまう。考え考えやっておったら、しどろもどろになって絵に動きがなくなる。気韻生動どころではないのである。

廣永窯の立地私の少年時代半泥子のもとで修行坪島土平、独自の道土について釉薬について絵付けについて窯と焼成について土平の象嵌、土平の志野原点としての茶やきものはボディ(胎)である手が勝手に動く技術はプロ、精神はアマチュア


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