昭和十年代、東京日本橋で漆器店「鳳美堂」を営んでいた寿賀の創始者菅光茂と、三重県津市在住の川喜田半泥子先生が昭和二十一年に創設した廣永窯との交流は、新橋の料亭「金田中」御主人の岡副鉄夫氏の仲介に依り、昭和三十年代初頭に始まる。
その半泥子の直弟子である坪島土平先生らの作品販売にあたっては、日本橋の老舗、名門美術商「水戸忠」店鋪の片隅を、同じく岡副氏のお世話で「三ヶ月」の約束で借りる事から始まった。が、結局は三年も居候してしまったという(古美術商尚古堂玉林三郎氏談)。
その後店鋪を昭和三十四年麻布霞町に構えたが、東京オリンピック時の道路拡張工事の為に店は立ち退きとなり、自宅の一室を店とし販売を続け、傍ら新宿伊勢丹デパートに販路を求めた。丁度その頃、廣永窯では半泥子先生亡き後(昭和三十八年没)、株式会社廣永陶苑の経営責任者藤田等風専務が、坪島先生を後継者に窯もまた新たな出発をしていった。時代は、まさに高度経済成長期の真只中であった。
この後約十年間の伊勢丹デパート時代を経て、昭和五十年、南青山の自宅隣にあった面積五坪たらずの倉庫を店鋪とし、屋号を坪島先生に依頼して「寿賀」がスタートしたが、昭和六十二年に店鋪近隣一体ビル化の話が持ち上がり、新設STビルの一階に移転、現在に到っている。
今日「寿賀」は、廣永窯の作品だけで二百五十種を越え、質量とも飛び抜けたユニークな店となっている。また一方、廣永窯以外では、木曾の漆芸家夏目有彦(故人)、北原久の根来塗、野口義明の弁当箱などの漆器、さらに小林英夫、門脇硝子の江戸切子など本物の器が、やきものに負けない堂々たる存在感を示している。
(『心と技の美』より)
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